どんな場面においても自分は「悪くない!」と思った瞬間、相手が悪い、と主張する言葉や態度をしてしまいます
本当に「自分は悪くない」のでしょうか?
「悪」は善悪の悪、であり人として、その対応は相手の立場を考えたかどうか?を問われている気になります
物事、特にトラブルが起こるときに、私は双方に問題があるのでは?と考えます
一人では物事のトラブルは起きませんし、必ず、相手がいる、ということ
以前、救急搬送をした時のこと
脳腫瘍の利用者さんで、終末期でした 介護者の娘さんは、口から食事をさせたくて、娘さんなりに介助していました
嚥下の状態が落ちていき、吸引が必要となりました
担当ナースは、頻回に吸引にするために訪問していました
吸引しても酸素飽和度が上がらない状態になり、ナースは救急搬送と判断しました
そして、救急搬送をした後、その利用者さんの担当医師から連絡があり、搬送判断をしたナースと話をしたい、と連絡を受けました
この時、ナースの頭の中は、なぜ、呼び出しをうけるのか?と思ったそうです
搬送後、病院で吸引したら酸素飽和度が上がり、在宅ではなぜこの状態にできなかったのか?と問われました
担当ナースは、自分のできる限りのことは、やったのになぜ、責めを負わなければならないのか?と半ば怒りを
持ちその場に立ったのかもしれません
心の怒りは、相手に「怒りの波動」として届くものです
どんなことがあっても冷静に心を保つ必要があります
怒りは怒りで戻ってきます 自分の投げた言葉が自分に戻るのです
冷静な言葉を投げれば、冷静な言葉が戻る 優しい言葉を投げれば優しい言葉が戻ります
物事は常に試されるもので、新規の利用者さんの担当がその救急搬送でトラブルになったドクターになりました
私は、そうか、これは試されているのだな、今度はどのように対応するのかを見られている、と思いました
その時のナースにTさんの主治医は、○○先生だからよろしくね、と話すと私はいいです、というのです
救急搬送時の○○先生とのやり取りを許せないのだな、と感じました
利用者が選んで、○○先生になったわけではありません
むしろ、○○先生が私たちを選んだかもしれないのです
なんとも残念なのですが、しかしながら逃げ回っても乗り越えなければまた、同じことがやってきます
あの時、何に問題があったのか?
冷静に立ち振る舞いをしていただろうか?
嫌だな、という感情をぶつけていなかっただろうか?
救急外来のドクターの大変さを配慮していただろうか?
自分の知識に不足はなかっただろうか?
考えることはたくさんあります
「しょうがない」と思っても納得できない自分がいます
心の底に「私は悪くない」という考えがある限り、相手を許すことなどできない
○○先生も救急外来して、日中も診療をして大変だったのだろう
休む暇もなく、救急車で搬送される患者を診ていかなければならない医者の仕事
医者であっても一人の人間 疲労でイラついていることもあろう
生死のはざまをさまよう患者を救えない無力さも感じているであろう
そう思えると先生方の大変さも理解でき、そうか、そうか、と許せる気がしてなりません
物事は、必ず己の心がどうか?という問いかけの時に起きます
正しく進んでいるときには起こらない
学ぶ機会を与えられたのだ、と思うと腹もたたないですね むしろ、未熟だったな、と
相手のことも許す、そして自分のことも許す
そうやって、魂を磨くのだと思っています